先日、お亡くなりになられた昭和の喜劇王、志村けんさん。
ニュースを聞いたとき、ほんとにびっくりしました。
すごく喪失感を感じました。僕らオジサン、オバサン世代にとっては、
ドリフターズの「8時だよ全員集合!」は毎週土曜日の夜8時に家族みんなで大笑いした、あの時代になくてはならない番組でした。
なので、この度のケンちゃん(あえてケンちゃんと呼ばせてもらいます。。。)
がなくなった時は、すごく喪失感を感じました。
早すぎるって!!
まだまだいて当たり前の人やったと思います。
志村けんさんの追悼番組で、加藤茶さんが、「天国にみんなが行ったら、またドリフのみんな天国のやつら笑かしてやろうぜ!、だからそれまで、天国でチョウさんとネタ考えといてくれ!」
といった内容の弔辞を読まれていましたが、涙が出そうになりました。
芸能人の方がお亡くなりになっていくのをニュースなどでみてもあまり驚くことがない僕なんですが、ケンちゃんが亡くなられたのは、すごい悲しかったですね。
ドリフってその後のお笑いの基礎を間違いなく作ったと思うし、
そんな彼らは、実はバリバリのミュージシャンだったって事はあまり知られてないのかもしれませんよね。
今回は、ドリフの歴史をほんの少しですが調べてみました。
ドリフってバリバリのミュージシャンだっったてことは先ほど書きましたが、
メンバーもすごかったんですね。
僕も改めてびっくりしました。
もともとは、後にリーダーになる、いかりや長介さんや僕らの知っているドリフのメンバーになる前からドリフターズは結成されていて、米軍キャンプなどで演奏していたそうです。メンバーの中に坂本九さんも在籍された名門バンドだったんですね。
その後、紆余曲折があり、昭和37年に桜井輝夫さんという方がドリフのリーダーとなり、音楽ギャグができるグループを作りたいという思いから、 加藤茶さんや小野ヤスシさんが入られたそうです。
それから加藤茶さんが、他のバンドの元メンバーでメインヴォーカルをつとめていた、仲本工事さんをギターとして、加えて当時ギターの名手として名を轟かせていた高木ブーさんが加入。
そして顔が面白いっていう理由だけで加入した、新井注さんがピアノで加入したそうです(笑)
仲本工事さんがヴォーカルって想像つかないなー。体操のお兄さん的なイメージだったし、聴いていてみたかったな~!
それに高木ブーさんがギターの名手って超驚きですよね。
でも、ブーさん、ウクレレをひいて、甘い声でハワイアンを歌われてるのを聴いたことがあったので、何となくギターの名手っていうのもわかる気がします。
ドリフターズの歴史
その後、昭和41年ザ・ドリフターズにとてつもない大舞台に立ちます。
なんとビートルズの日本公演の前座です。
すごすぎないですか?演奏はのっぽのサリー、仲本さんがメインボーカルをつとめられました。
そしてついに、伝説の番組「8時だよ全員集合」が昭和44年に始まりました。
視聴率50パーセントをたたき出したこともあるそうで、超人気番組だったんですね。
僕もさすがに始まったころは知りませんでしたが、初めの頃は加藤茶さんが「ちょっとだけよ」でブレイクしたそうです。
その後、新井注さんが、体力の限界ということで、当時、ドリフターズの付き人だった、志村けんさんとバトンタッチします。
そこから、最初の頃はあまり人気が出なかったケンちゃんだったそうですが、「東村山音頭」が大うけし一躍スターになられたそうです。
そこからは、ヒゲダンスや「最初はグー」や「怒っちゃやーよちょーさん!」などギャグがどんどん生まれさらに人気者になりました。
8時だよ全員集合で、僕が好きだったのは、前半のコントはもちろんですが、後半の少年少女合唱での「早口言葉」でした。
それに今では大御所の歌手や俳優さんが、まだ若手で、少年少女合唱団に加わり歌うのも最高でした。
で、ちなみに髭ダンスですが、これは僕が大好きなテディ・ペンダグラスの「DO ME」という曲のイントロを取っています。
ドリフターズの舞台って今考えると、かなり洗練されていたんですね。
むかしの黒人音楽番組の「ソウルトレイン」なんかを少し彷彿するような気もしますし、
もともとバンドマンという音楽畑の人たちが作ったお笑いだからこそリズム感があったのかもしれませんね。
最後にケンちゃんがマジで歌っている動画を発見しました。
吉幾三さんの酔歌です。
渋いケンちゃんです。
おもろい、音楽できて、歌うまい、そらモテるよなって。
志村けんさん、ありがとうございました!
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